スペキュラティブ・デザインとビジネスの未来
~「正解」のない世界で「問い」を立てる:不確実性を手なずけるための経営戦略~
1. 【序論】予測不可能な時代(VUCA)の羅針盤
「デザイン思考」だけでは太刀打ちできない壁
過去20年、ビジネス界を席巻したのは「デザイン思考(Design Thinking)」でした。ユーザーへの共感から出発し、現在の課題を解決するソリューションを生み出すこの手法は、素晴らしい成果を上げてきました。
しかし、今、多くの企業が気づき始めています。「現在のユーザーの不満」を解消するだけでは、「破壊的な未来の変化」に対応できないことに。
AIによる雇用喪失、気候変動による移住、遺伝子操作による倫理問題。これらは、現在のユーザーにインタビューしても答えが出てきません。なぜなら、まだ誰も経験したことがないからです。
「未来を予測する」のではなく「未来を思索する」
ここで登場するのが「スペキュラティブ・デザイン(Speculative Design)」です。
これは、市場調査データに基づいて来年の売上を予測すること(Forecasting)ではありません。「もし、バイオテクノロジーで肉が培養できるようになったら、食卓はどう変わるか?」「もし、仕事が消滅してベーシックインカムが導入されたら、企業の役割は何になるか?」という「What if(もしも~だったら)」を問いかけ、未来のシナリオを具体的に描く行為です。
ビジネスにおけるスペキュラティブ・デザインは、「未来の予行演習」です。あえて極端な未来を描くことで、現在私たちが打つべき手、避けるべきリスクを浮き彫りにする、高度な経営戦略ツールなのです。
2. 【理論編】スペキュラティブ・デザインとは何か
アンソニー・ダンとフィオナ・レイビーの提唱
この概念は、RCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)のアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーによって提唱されました。彼らは、デザインを「商業的な問題を解決するツール」から、「社会的な問題を提起し、議論を生むためのツール」へと再定義しました。
従来のデザインが「世界を良く見せる(あるいは便利にする)」ものであるなら、スペキュラティブ・デザインは「世界が抱える矛盾や可能性を可視化する」ものです。
「PPEの円錐(The Cone of Possibilities)」
未来を考える際、彼らは「円錐(コーン)」の図を用います。
- Probable(ありそうな未来): 現在の延長線上にある、最も確率が高い未来。通常の事業計画はここを見ます。
- Plausible(ありえる未来): 経済や政治の大きな変化が起きれば起こりうる未来。シナリオ・プランニングの領域です。
- Possible(可能な未来): 科学的知識の限界を越えない範囲で、起こりうる全ての未来。
- Preferable(望ましい未来): 上記の中で、私たちが「こうありたい」と願う未来。
ビジネスが陥りやすい罠は、「Probable(ありそうな未来)」だけに最適化してしまうことです。しかし、コロナ禍や生成AIの登場が示したように、現実はしばしば「ありそうな未来」を逸脱します。スペキュラティブ・デザインは、思考の枠を「Possible(可能な未来)」まで広げ、その中から自社が目指すべき「Preferable(望ましい未来)」を選び取るためのコンパスです。
3. 【戦略編】なぜビジネスに「SF(空想)」が必要なのか
「空想に金を使っている暇はない」と考える経営者もいるでしょう。しかし、現代においてそれは危険な考えです。
1. リスク・マネジメントとしての機能
新技術(例えば自動運転やメタバース)を導入する際、それが社会にどんな摩擦を生むかを事前にシミュレーションできます。
「ハッキングされたらどうなるか?」「格差を助長しないか?」といった「ダーク・シナリオ(ディストピア)」を敢えて描くことで、製品が炎上したり、規制によってビジネスが頓挫したりするリスクを事前に回避できます。これは「守りのDX」とも言えます。
2. イノベーションの「源流」を探る
iPhoneが登場する前、人々は「キーボードのない電話」を欲しがりませんでした。革新的な製品は、ユーザーニーズの先(あるいは外)にあります。
スペキュラティブ・デザインは、技術と社会の変化が交差する点に「架空のプロダクト」を投げ込むことで、潜在的なニーズや、全く新しい市場(Blue Ocean)を発見する手助けをします。
3. 倫理と社会的受容性のテスト
Netflixのドラマ『ブラック・ミラー』のように、テクノロジーが暴走した未来を描くことで、社内の倫理観を醸成します。「技術的に可能(Feasible)か、儲かる(Viable)か」だけでなく、「倫理的に正しいか、社会に受け入れられるか」という新たな評価軸をビジネスに導入します。
4. 【手法編】未来を実装するツールキット
スペキュラティブ・デザインは、単なるブレインストーミングではありません。具体的な「モノ」を作ります。
ダイエジェティック・プロトタイプ(物語の中の試作品)
「ダイエジェティック(Diegetic)」とは映画用語で「物語内の」という意味です。
未来のシナリオの中に登場する製品を、あたかも実在するかのように作ります。
例えば、「2040年の銀行口座」を考える際、レポートを書くのではなく、「2040年の通帳(あるいはインプラント型デバイス)」のモックアップを作ります。
それを見て、「使いにくそう」「怖い」「いや、便利かも」と議論することが、抽象的な未来をリアルなビジネス課題へと変換します。
デザイン・フィクションとSFプロトタイピング
未来のカタログ、未来のニュース動画、未来の取扱説明書などを作成します。
これらは「嘘」ですが、「嘘から出た実(まこと)」を生むための触媒です。近年、インテルやマイクロソフトがSF作家を雇用し、物語を通じて未来の技術仕様を策定する「SFプロトタイピング」もこの一種です。
バックキャスティング
「望ましい未来(Preferable Future)」を定義したら、そこから現在に遡って、「では、2030年には何が必要か? 2025年には?」とロードマップを引きます。現状の積み上げ(フォアキャスティング)では到達できない飛躍的な目標設定が可能になります。
5. 【事例編】世界の先進企業の「問い」と実践
世界の一流企業は、どのように「空想」をビジネスに活用しているのでしょうか。
IKEA (Space10): 「One Shared House 2030」
IKEAの外部イノベーションラボであったSpace10(2023年に閉鎖)は、数々のスペキュラティブなプロジェクトを行いました。
「One Shared House 2030」では、急速な都市化と孤独化が進む未来において、「コリビング(共有居住)」がどうあるべきかを問いかけました。
彼らはWebサイト上で「シェアハウスで何を共有したいか?(冷蔵庫? トイレ? ペット?)」というアンケートを実施し、未来のライフスタイルの受容性を大規模に調査しました。
ビジネス的価値: 家具を売るのではなく、「未来の暮らし方」という文脈をデザインすることで、都市開発やスマートホーム事業への足がかりを得ました。
Apple: 「Knowledge Navigator」 (1987)
これは古典的ですが、最も成功した事例の一つです。1987年、Appleは「Knowledge Navigator」というコンセプト動画を発表しました。タッチパネルを持ち、AIエージェントと会話しながらデータを操作するタブレット端末が登場します。
当時、インターネットも普及していない時代に描かれたこの「空想」は、20数年後のiPadやSiriの出現を正確に予見していました。
ビジネス的価値: 社内のエンジニアやデザイナーに「目指すべき北極星」を示し、長期間にわたるR&Dの指針となりました。
Visa: 「One Market」
決済大手のVisaは、ロンドンやシンガポールなどのイノベーションセンターで、未来の商取引(コマース)の形を模索しています。
「車が自動でガソリン代を払う」「冷蔵庫が牛乳を注文する」といったIoT決済が当たり前になった世界で、Visaの役割はどう変わるか。彼らは未来の店舗や生体認証ゲートのプロトタイプを作り、パートナー企業と共に「見えない決済」の体験を検証しています。
政府・公共セクター: 英国政府とポリシーデザイン
英国政府科学局は、高齢化社会やAIの影響を検討するためにスペキュラティブ・デザインの手法を用いています。
「もし平均寿命が120歳になったら、年金制度はどう破綻するか、あるいはどう進化すべきか」というシナリオを可視化し、政策立案(ポリシーデザイン)に役立てています。シンガポール政府も同様に「リスク・ホライズン・スキャニング」という手法で国家戦略を練っています。
6. 【比較編】デザイン思考 vs スペキュラティブ・デザイン
両者は対立するものではなく、補完関係にあります。
| 特徴 | デザイン思考 (Design Thinking) | スペキュラティブ・デザイン (Speculative Design) |
| 時間軸 | 現在 ~ 近未来 (1-3年後) | 中長期未来 (5-20年後) |
| 目的 | 問題解決 (Solution) | 問題提起 (Problem Finding) |
| アプローチ | ユーザー中心 (User Centric) | 社会・環境中心 (Society/Planet Centric) |
| 成果物 | 使いやすい製品・サービス | 議論、シナリオ、プロトタイプ |
| 問い | How might we…? (どうすればできるか) | What if…? (もしこうなったら) |
| ビジネス価値 | 売上の向上、CX改善 | イノベーションの方向付け、リスク回避 |
現在(2025年)のビジネスにおいては、「スペキュラティブ・デザインで『何を解決すべきか』という大きな問いを見つけ、デザイン思考で『具体的にどう解決するか』を形にする」というハイブリッドな運用が最強の布陣です。
7. 【実践編】企業導入へのロードマップ
明日から社内で始めるにはどうすればよいでしょうか。
R&D部門と経営企画室の連携
通常、R&Dは「技術」を、経営企画は「数字」を追います。その間に「ビジョン」が抜け落ちがちです。スペキュラティブ・デザインは、この両者をつなぐ共通言語になります。技術的なシーズ(種)を元に、経営的なシナリオを描くワークショップを合同開催するのが第一歩です。
「馬鹿げたアイデア」を許容する文化の醸成
スペキュラティブ・デザインのアイデアは、一見すると「突飛で、非現実的で、不快」に見えることがあります。しかし、そこで「こんなの売れないよ」と却下してはいけません。
「なぜ不快なのか?」「なぜ売れないと思うのか?」を掘り下げることで、現在の市場の固定観念(バイアス)が見えてきます。イノベーション担当役員(CIO)は、こうした「異物」を守る役割を担う必要があります。
外部クリエイターとの共創
社内の人間だけで未来を描くと、どうしても「自社の都合の良い未来」になりがちです。SF作家、アーティスト、哲学者、生物学者など、全く異なるバックグラウンドを持つ外部の人間を招き入れ、予定調和を破壊してもらうことが重要です。
8. 【日本編】日本企業とスペキュラティブ・デザインの親和性
SFプロトタイピングのブームと本質
現在、日本でも「SFプロトタイピング」という言葉がバズワード化し、多くの大企業が導入しています。日本には元々、鉄腕アトムやドラえもんのように「テクノロジーと社会の共存」を描く豊かなフィクションの土壌があります。
欧米のスペキュラティブ・デザインが「批判的・警告的(クリティカル)」な側面が強いのに対し、日本の事例はやや「楽観的・希望的」な傾向がありますが、企業のパーパス(存在意義)を再定義する手法として機能しています。
Sony Designなどの取り組み
ソニーのクリエイティブセンターは、「Sci-Fi Prototyping」の展示を行っています。「2050年の東京」をテーマに、AIとの恋愛や、海上浮遊都市での生活などを描き出し、技術がもたらす感性価値(Emotional Value)を探索しています。これは製品開発に直結させるというより、ソニーという企業の「技術に対する姿勢」を社内外に発信するブランディングとしても機能しています。
9. 【結論】恐怖と希望をデザインする
ビジネスにおいて「不確実性」は恐怖の対象でした。しかし、スペキュラティブ・デザインは、その不確実性を「複数の選択可能な未来」へと変換します。
未来は、向こうからやってくるものではありません。私たちが現在の行動によって選び取るものです。
「ディストピア(暗黒の未来)」を描くことは、それを避けるための予防線です。「ユートピア(理想の未来)」を描くことは、そこへ向かうための原動力です。
生成AIが瞬時に答えを出し、最適化が進む現代だからこそ、「問いを立てる力」「まだ見ぬ世界を夢想する力」という人間特有の能力が、最大のビジネスリソースになります。
あなたの会社は、5年後の市場シェアを心配していますか? それとも、20年後の世界で、人類にどのような価値を提供しているかを想像していますか?
スペキュラティブ・デザインは、目先の数字競争から抜け出し、歴史に残るビジネスを創造するための、最も知的な冒険なのです。
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